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2020年12月11日

おわりにあたって

『今日の老子』に長い間お付き合いいただき、ありがとうございました。
難敵だとは覚悟していましたが、思っていた以上に難解でした。その理由を顧みるに、言葉を解釈するという長年の習性が邪魔をしていたように思います。老子の言葉は比喩が多く、それだけに、言葉の奥にある真意を感じ取ることが大切だと言われますが、その力の未熟さを知らされた次第です。

ブログの表紙で、『論語』は人生の上り坂、『老子』は人生の下り坂の思想だという話を紹介しましたが、両方を通読した経験から、”なるほど”と実感致します。『論語』は修身・斉家・治国・平天下の思想…自分の身を修め、人格を高め、立派なリーダーになっていくための思想であり、意気揚々としている反面、時には肩肘張った印象もあります。これに対して『老子』は、”そんなに肩肘張らずに楽にしなさいよ、ありのままでいいんだよ”と言ってくれているようです。その根底にあるのが、天地自然の営みと人間の持つ純朴な善き心への信頼だと思います。

現代社会を象徴する言葉は沢山あります。曰く管理社会、序列社会、訴訟社会、競争と淘汰…等々。本当にストレスが溜まる生きずらい世の中になってしまいました。本来、大宇宙の生み出した生命はもっと生き生きとして躍動的であったはず。もっと自由に生きたい、おおらかに生きたい…そんな思いは誰もが持っているのではないでしょうか。
その意味で『老子』は、今のような時代にこそもっと関心を持たれてもいい思想だと思います。私自身、もっと深く『老子』を理解したいと考えていますが、より多くの方にも知っていただきたいと願うものです。

おわりに、『今日の論語』、『今日の言志四録』、『今日の老子』の三部作をお読みいただき、励ましを頂いた皆様に謝意を表し、筆を置きたいと思います。長い間ありがとうございました。  

Posted by 知好楽 at 08:39Comments(2)

2020年12月10日

第81章 『老子』結びの言葉(まとめ)

信言は美ならず、美言は信ならず。善なる者は辯ぜず、辯ずる者は善ならず。知る者は博からず、博き者は知らず。 聖人は積まず、既(ことごと)く以て人に為(ほどこ)して、己いよいよ有り。既く以て人に与えて、己れいよいよ多し。天の道は利して害せず。聖人の道は為して争わず。

【筆者意訳】真実を語る言葉は飾り気がない、飾った言葉は真実を語らない。善人は口達者ではない、口達者な者は善人ではない。真の知者は博識ぶらず、博識ぶる者は真の知者ではない。聖人は言葉に頼らず、知識に溺れず、人のために尽くして心の充足を得る。天が万物に恵みを与えて害することがない様に、人も人の為に尽くして争わない。このようにありたいものだ。

【ひとこと】本章は、『老子道徳教』の最後を締めくくる章に相応しく、座右の銘になりそうな言葉がたくさん並んでいます。
原文で味わってみましょう。
「信言不美 美言不信」、「善者不辯 辯者不善」、「知者不博 博者不知」。そして結文、「天之道 利而不害 聖人之道 為而不争」です。

”自分を良く見せたい、人から評価されたい”という願望は、人間誰しも持つものです。しかしそれが行き過ぎると、実体以上の見栄えや評価を求めることになり、美言や多弁になってしまいます。しかしそれで心の充足を得られるものではありません。
「ありのまま」の自分をさらけ出して、「ありのまま」に評価してもらえばいいのです。そうすれば他人から見る自分と、自分から見る自分が一致するので気負うこともなくなります。それが出来た時に人は、「自分」も「他人」も丸ごと受け入れることが出来て、満たされた心でおおらかに生きられるのだと思います。

言葉を飾る必要もない、知識をひけらかす必要もない。「ありのまま」の自分を使って、世のため人のために尽くして厭わない。表面的な豊かさよりも心の豊かさを大切にして、他人と争うことがない。そんな人間としての生き方を老子は勧めているのです。
江戸時代の儒学者・佐善雪渓の詩が浮かびます。
「世の中は ただ何となく 住むぞよき 心ひとつを すなほにはして」

  

2020年12月09日

第81章 『老子』結びの言葉(その2)

聖人は積まず、既(ことごと)く以て人に為(ほどこ)して、己いよいよ有り。既く以て人に与えて、己れいよいよ多し。 天の道は利して害せず。聖人の道は為して争わず。

【現代語訳】聖人は自分のために蓄えない、すべてを人々に施しながら、自分は益々充実する。すべてを人々に与え尽くしながら、自分は益々大きな存在となる。 天の道は万物に恵みを与えて損なうことがなく、聖人の道は万民の為に尽くして争うことがない。

【解説】聖人(=「道」を体得した者)は、、自分の為に地位や財産や名声を獲得しようと思わない。得られてとしても、それらを世のため人のために捧げ、決して自分だけのものにしようと考えない。だから結果的に人々の信頼と尊敬を得て、知らず知らずの内に大きな存在となっていくのです。もちろん自身が精神的にも充実していくということです。

最後の文節です。
”「道」は万物を生み養いながら、私有することも、頼ることも、支配することもしない。”という言葉が何回も出てきましたが、それを最後に、”「天の道」は万物に公平に恩恵を与え、害することがない”という表現でまとめています。「天道」に対する絶対的な信頼の表現です。

聖人(=「道」を体得した者)という言葉も何回も出てきました。聖人も「道」と同様に、”恩沢を施しても見返りは求めず、成果を挙げてもこだわらず、自分の賢さをひけらかすこともしない”(第77章/天道と人道参照)のです。これを最後に、”万民の為に公平に尽くし、争うことがない”という表現でまとめています。

「天の道は利して害せず。聖人の道は為して争わず。」は、「天道」のありよう、それを体現した「人道」のあり方を、簡潔明瞭に言い表した至言であり、『老子道徳教』で語られた幾多の言葉の結論なのです。
  

2020年12月08日

第81章 『老子』結びの言葉(その1)

信言は美ならず、美言は信ならず。善なる者は辯ぜず、辯ずる者は善ならず。知る者は博からず、博き者は知らず。

【現代語訳】真実を語る言葉は飾り気がない、飾った言葉は真実を語らない。善人は雄弁ではない、雄弁な者は善人ではない。真の知者は博識ぶらず、博識ぶる者は真の知者ではない。

【解説】『老子道徳教』の最終章です。老子特有の逆説的な表現が並んでいます。
「信言」とは、真実を述べて偽りのない言葉のこと、「美言」とは、飾り立てた言葉、耳障りのいい言葉のことです。真実を語る言葉は、聴く人にとって必ずしも耳障りの良いものではありません。時には痛い所を突かれてムッとすることがあるものです。『論語』にも、「巧言令色鮮し仁」とあります。

「善なる者」は善人と訳しましたが、正しい行いをする者の意味、「弁ずる者」は雄弁と訳しましたが、口数が多い者の意味です。正しい行いをする者は、自分の行為をいちいち説明したり言い訳することはありません。その必要がないからです。逆に自分の行いに後ろめたさがある者、自信がない者ほど言葉で取り繕うものです。

「知る者」とは、真の知識を身につけた者です。本当に解っている人は、自分の知識をひけらかしたりしません。話す内容も簡潔明瞭です。解っていない人ほど、さも自分はよく知っていると言わんばかりに、専門用語を使ったりして難しく話すものです。  

2020年12月07日

第80章 桃源郷(まとめ)

国を小さくし民を寡(すく)なくす。什伯人の器有りて而も用いざらしむ。民をして死を重んじて而して遠く徙(うつ)らざらしむ。舟轝(しゅうよ)有りと雖(いえど)も、之に乗る所無く、甲兵(こうへい)有りと雖も、之を陳(つら)ぬる所無し。民をしてまた縄を結びて之を用いしむ。 その食を甘しとし、その服を美しとし、その居に安んじ、その俗を楽しむ。隣国相い望み、雞犬(けいけん)の声相い聞こゆるも、民は老死に至るまで、相い往来せず。

【筆者意訳】人口の少ない小さな国。人並み優れた人材がいても出しゃばらず、人々は命を大切にして危険な遠くに足を伸ばさない。文明の利器を求めるわけでなく、戦をするわけでもない。人々は昔ながらの素朴な暮らしを送り、衣食住に満足し、生活を楽しんで生涯をこの郷で終える。これが私の理想郷だ。

【ひとこと】晋の時代に武陵の漁師が渓谷を登って行くと、美しい桃花の林に出た。奥に入っていくと、山の一角に小さな洞穴を見つけた。そこを進んで行くと突然視界が開け、家屋が並び、素晴らしい田や池、桑や竹が連なる広々とした人里に出た。鶏や犬の啼き声がのどかに聞こえ、往来する村人は見たことも無い服を着て、子供から老人まで実に楽しげ気であった。村人たちは漁師を歓迎し、酒や料理をふるまってくれた。話を聞くと、村人の先祖が秦時代の戦乱を避けてこの地に住み、以来外の世界との往来をすっかり絶ってしまったのだという。
武陵に帰った漁師の話を聞いて、何人かがこの村を探し訪ねたが、ついに誰も見つけることは出来なかった。
これは、中国4世紀頃の詩人「陶淵明」による散文・「桃花源記」の概要です。ここから「桃源郷」という言葉が生まれました。この話の元になっているのが本章です。

「桃源郷」という言葉は、今でも時々、”世俗を離れた、わずらわしいことのない別天地(楽園)”という意味で使われます。世知辛い世の中で暮らす現代人にとって、憧れの世界かもしれません。
私たちが住む現実世界では、このような別天地は望むべくもありませんが、精神世界では可能性のあることです。それは(昨日も触れましたが)、比較差別をしない、我に執着しない生き方をすることによって近づくことが出来るものでしょう。自分と他人を比べるから苦しみや驕りが生まれる、我に執着するから作為が生まれ、意地を張り頑固になるのです。こういったことから解き放たれれば、人は自由に、おおらかに生きられる…老子は、このことを一貫して説いているのだと思います。  

Posted by 知好楽 at 08:27Comments(0)第80章 桃源郷

2020年12月06日

第80章 桃源郷(その2)

その食を甘しとし、その服を美しとし、その居に安んじ、その俗を楽しむ。隣国相い望み、雞犬(けいけん)の声相い聞こゆるも、民は老死に至るまで、相い往来せず。

【現代語訳】(人々は昔ながらの素朴な暮らしを送り、)その日の食事を美味しく食べ、着ている衣服に満足し、自分の住まいで安らかに暮らす。そんな暮らしを楽しんでいるので、鶏や犬の鳴き声が聞こえるほど近くの隣国であっても、終生お互いに行き交う事もない。これが私の理想郷だ。

【解説】理想郷での人々の暮らし方が続きます。
昔ながらの素朴な暮らしの中で、人々は産物を分け合い助けあって暮らしています。皆が衣食住に満足し、平穏な生活を満喫しています。もちろん貧富の差はなく、争い事もありません。ですから指導者も規則も必要としません。他国との交流も無いので外から情報も入らず、誰もが”今が最高”と満足しています。

このような国があったらどうでしょう。衣食住に事欠くことも無く、住民格差も無く、外から刺激的な情報も入ってこない世界では、競争心も起こらず、現状に代わる世界も想像できないでしょうから、問題意識の生じない世界です。それであれば”今が最高”と考えるでしょう。

そんな世界は現実離れしていると思うでしょうが、それは表面的な見方です。老子がここで云いたいのは、比較差別をしない、我に執着しない生活がいかに平穏で楽しいかということです。人間も赤ん坊の時は、無邪気でくったくなく生きられました。我執も比較もないからです。それが成長するに従って我執が生まれ、人と比較競争して苦しみを背負うようになります。国も同じで、小国であれば他国に干渉せず、自助共助の中で生きようとしますが、大国になる程権力や武力を使いたがります。
人間が大人になっても、国家が大きくなっても、赤ん坊や小国の時と同じように、比較差別をせず我に執着しなければ、自分も皆も平穏に暮らせる。これが老子の説く道であり、無為自然の生き方なのです。  

Posted by 知好楽 at 06:49Comments(0)第80章 桃源郷

2020年12月05日

第80章 桃源郷(その1)

国を小さくし民を寡(すく)なくす。什伯人の器有りて而も用いざらしむ。民をして死を重んじて而して遠く徙(うつ)らざらしむ。舟轝(しゅうよ)有りと雖(いえど)も、之に乗る所無く、甲兵(こうへい)有りと雖も、之を陳(つら)ぬる所無し。民をしてまた縄を結びて之を用いしむ。

【現代語訳】人口の少ない小さな国がある。人並み優れた人材がいても出番はなく、人々は命を大切にして危険な遠くに足を伸ばさない。船や車があっても乗る必要がないし、鎧や武器も使い道がない。約束事は縄を結んで記憶し、契約書などは必要としない。

【解説】老子の理想郷とする「小国寡民」を説いた章です。
《寄り道/老子の理想郷》のところで述べましたが、紀元前500年頃の古代中国では、「里」という村落組織の中に「領国」という政治形態が存在し、「領国」同士が領地を巡って戦に明け暮れていました。「里」は政治から切り離されていましたから、戦に関わることなく素朴な農耕生活をしていたものと考えられます。管理階層の中で戦に嫌気がさした者は、隠者となって「里」に逃れました。

老子の理想郷は、「里」の農耕生活をモデルとして空想されたものだと思います。お互いの顔も暮らし向きもよく知っているような僅かな人々で成り立つ小さな国で、人々は自給自足の生活をしています。商売や物々交換のために他国に行く必要も無いので、船や車も使いません。領土を広げる意図も無いので戦をする必要もありません。約束事も口約束で十分で、契約書などという堅苦しいものは要りません。現状を変える必要を人々は感じていないので、人並み優れた人材がいても、その能力を発揮する場もないというわけです。  

Posted by 知好楽 at 08:27Comments(0)第80章 桃源郷

2020年12月04日

第79章 怨みを買うことはするな(まとめ)

大怨を和すれば必ず余怨あり。安くんぞ以て善と為すべけんや。是を以て聖人は、左契を執りて而も人を責めず。 故に、徳有る者は契を司り、徳無き者は徹を司る。天道は親無し、常に善人に与す。

【筆者意訳】怨みが根深ければ、和解してもしこりが残るものだ。だから怨みは買わないに越したことはない。そのためには、たとえ自分が正当だとしても、相手を責めすぎないようにすることだ。それが徳人の態度というものだ。自分が責めなくても、天は常に善人の味方なのだから。

【ひとこと】自分が100%正しいと考えていても、それを理由に相手を責めて、怨みを買うようなことをしてはいけない。そんなことで人間関係を壊さなくても、天がちゃんと見ていて、天罰を与えてくれるからということですね。

仏教では、人間が生きていく上で出会う苦しみが八つあるとし、「四苦八苦」という言葉で教えています。その中のひとつに「怨憎会苦」という、人を怨み憎む苦しみがあるといいます。それは仏教でも難儀なものと考えていたのです。怨み憎むという感情は、他人に向けたものではありますが、それがそのまま自分に返って来て自分を苦しめるということです。

怨み憎みの感情は、自らの行為に起因するものではなく、侮辱されるとか不当な扱いを受けるなどの、他人からの行為によって引き起こされるものです。他人から加えられる行為は自分では止めることはできませんが、それにどのように対応するかは自分で制御することが出来ます。相手の無礼な行為に対して、逐一怨み憎しみの感情を蓄積していては心が荒んできます。ですから、自身が怨み憎しみの感情を溜めないようにすることが大切です。

しかしそれよりも大切なことは、怨みや憎しみを引き起こす行為を、他人に対してしないことだと老子は云います。誰しも、どうしても許せない相手は、長い人生の間に一人や二人は居るものです。しかしそれで相手を責め立てて逆恨みをされてもつまりません。”人でなしにはいずれ天罰が下る”ぐらいに考えて、頭から放かすのがいいでしょうね。

  

2020年12月03日

第79章 怨みを買うことはするな(その2)

故に、徳有る者は契を司り、徳無き者は徹を司る。天道は親無し、常に善人に与す。

【現代語訳】徳ある者は、人を責める権利がある場合でもその権利を行使しない。厳しく人を責めるのは、徳なき者のすることだ。天はえこひいきをせず、いつでも善人の味方をするのだ。

【解説】「契を司る」とは、割符=債権を管理するという意味、「徹を司る」とは、税を取り立てるという意味です。徳ある者は、貸し手としての債権はしっかり管理するけれども、無慈悲に取り立てはしない。徳のない者が、税金を取り立てるように無慈悲に取り立てをするということですね。

ここでは前文の続きとして、貸し手と借り手の関係で説明していますが、幅広く考えるべきでしょう。即ち、徳ある人物は、何事に於いても、自分に正当性があるという理由だけで相手を厳しく責めるようなことはしないというということですね。
「窮鼠猫を噛む」という諺がありますが、追い詰められた者は、鼠でなくても反撃するし、そうでなくても深い怨恨を持つでしょうから。

最後の「天道は親無し~」は、第73章で語られた「天網恢恢疎にして失わず」と同じです。天は人間の行為をちゃんと見ていて、悪人は見逃さず天罰を与え、善人の味方をするということですね。  

2020年12月02日

第79章 怨みを買うことはするな(その1)

大怨を和すれば必ず余怨あり。安くんぞ以て善と為すべけんや。是を以て聖人は、左契を執りて而も人を責めず。

【現代語訳】根深い怨みごとは、たとえ和解させても必ず後までしこりが残る。それでは上策とは言えない(それなら最初から怨みを買わないほうがいい)。だから聖人は、たとえ相手を責められる立場にいたとしても、人を責めようとはしないのだ。

【解説】冒頭の「大怨」は根深い怨みのこと、「余怨」は怨みの残り=しこりのことです。根深い怨みを持つと、表面的には和解をしたとしても、心の奥にしこりが残り、元の鞘には収まるのは難しいものです。だから怨みを買うようなことはしないほうがいいのですが、老子は続く文章で、たとえ自分に正当性があっても怨みを買うようなことはするなと言っています。

「左契」とは証文の割符のことです。例えばお金の貸し借りをする場合、証文(昔は木片でした)にその旨の記述をし、二つに割って貸し手と借り手が夫々持ちました。貸し手にとっては、自分の手元にあるその割符がお金を貸した証拠になるわけです。もちろん期限が来れば、貸したお金の取り立てをすることも、正当な行為として可能です。

しかし、そのように正当な行為であっても、お金が返せない事情がある人から身ぐるみを剥ぐような厳しい取り立てをすれば、怨みを買うことになります。返せるようになるまで待ってあげればいいのです。そうすれば怨みを買うようなことはありません。それが聖人の態度だということですね。