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2020年05月27日

寄り道 儒教と老子

『老子』が『儒教』に対してアンチテーゼを投げかけている章が続きましたので、それに関する話をしましょう。

『儒教』は孔子の思想が元となって出来上がった教学ですが、孔子の思想の原点は、”戦乱で乱れた社会の秩序を取り戻す”というところにありました。そしてその拠り所を、人が生来持っている「仁(思いやりの心)」に置き、それを基盤として「徳」ある人物を育て、その人物が国を治める「徳治政治」を目指したのです。つまり孔子のスタンスは、人間と関わり、社会に参画していくというスタンスであったのです。
そこでは、「徳」のある人物は、「君子」として称えられ、孔子もそれは価値あることとしています。また「徳」については、「仁・義・礼・智・信」を五常として定め、その修養を重視しています。

それに対して老子は、それらのものを世俗的価値として否定します。その背景には次のようなことがあったと私は推察しています。
当時は戦乱の世の中が長く続き、識者の中にはそういった世の中を避けて暮らす者も多かったようです。所謂「隠者」と称される人たちが居て、『論語』にも登場してきます。私は『老子』はその人たちから生まれた思想ではないかと考えています。
『老子』には厭世的な空気が満ちていますが、それは当時の「隠者」にも通じるものです。つまり老子のスタンスは、人との関わりや社会を避けて、自然と共に生きるところにあったのです。そこでの拠り所を自然(より広くは宇宙)の営みに求めたのは、必然の成り行きと言えるでしょう。”人が作為を持って行った行為が、このように世の中を乱れさせたのだ。人の作為は世の中に混乱と堕落しか生まないのだ。人間は自然の営みに沿って素朴に生きるべきなのだ。”というのが老子の目指す生き方であったのです。

孔子と老子の主張は、対極的であるように見えますが、その背景には、乱れた世相、その元凶である人間の欲と愚かさを憂える心が共通して有ります。また私たちの心の中にも、人間関係や社会を健全に保つために道徳を大切に思う心と、人間関係の煩わしさを避けて自然の中で素朴に生きたいという心が同居しています。しかしどちらに偏った生き方も現実的ではありません。その意味では、両者の思想の本質を学び、生き方に取り入れていくというのが、私たちが孔子・老子を学ぶ時の好ましい姿勢なのではないでしょうか。


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